ライターの火

ここで話の種にしようと思っているライターは、駅のキオスクで手に入る安価な 使い捨てライターのことではありません。様々に意を凝らした魅力的なケースに 包まれ、その魅力ゆえに、中身はどれも等しく頑丈でかつ生涯保証までついてい るというのに、ついつい次の逸品を求めてしまう、あの有名なライターのことで す。

このライターを持ち歩いていると、時々初めてそれに触れる人から扱い方を尋ね られることがあります。扱ったことのない人には分かりずらいかも知れません。 とはいえ簡単なものです。もしオイルが十分に入っているなら、火をつけること と消すこと以外の扱い方はありません。ふたをパチンと開けた後、親指でヤスリ を擦れば火がつきます。消すときは再びパチンとふたを閉めるだけです。キオス クライターとは違って、ふたを閉めなければ勝手に火が消えることはありません。

たしかに我々には火をつけるか消すかのどちらかしか扱いようがないのですが、 実際に扱い方を聞かれるとき、「扱い方」の中身は「火の付け方」のみを指して いることがほとんどです。最初の質疑応答で「火の消し方」まで学ぼうという人 はほとんどいません。ところが火の付け方を聞いてしまうと、誰でも自分で火を つけてみたくなります。読者の方はもうご存じですが、このライターはふたを閉 めなければ消えません。こういったわけで、第2の質問は火のついたままのライ ターを手に発せられることになるのです。

自分で火をつけてみる、という過程が省略されるなら話は別です。しかしそうで なければこの流れが変更されることはめったにありません。そしてそれは極めて 自然なことです。火の消し方を聞いてしまってから初めて自分で火の付け方を試 みるような人がいたら、実際ぞっとしてしまうでしょう。特に意識してそうして いるのならその人の知恵には脱帽せざるを得ません。とはいえ、そのような見事 な知恵をお持ちなら、周りの人間をびっくりさせないためにも少々その知恵を使っ ていただきたいものです。

このような並外れて思慮深い人を除けば、他の多くの場面で誰もが同様の流れを 踏んでいるとしても不思議ではないでしょう。何か物事を始める前に、終わり方 までしっかり考えていることはまずありません。我々はみな「何かをおっぱじめ る」期待で頭が一杯で、先のことなど考えていられない、というのが実情です。 ちょっと考えれば、実生活では始めることよりも終わらせることの方が困難な場 合が多いことにはすぐ思い当たるというのに。そしてそのような場合、困難の度 合いはライターの火をなんとか消すことよりもずっと上であることがほとんどで す。

賢明に生きようと思うならば、何かを始める前に一度立ち止まって、物事には必 ず終わりが来ること、上手に終わりを向かえるためにはそれなりの困難を乗り越 えなければならないことに思いを馳せてみるべきでしょう。「終わり良ければす べてよし」とは良く言ったものです。人から借りたライターなら目の前の持ち主 に尋ねればすぐに火の消し方を教えてくれるでしょうし、普通のやり方とは違っ たやり方でも消すことができるかもしれません。ともかく消してしまえばそれま でです。これに対して実生活では、単に物事を終わらせることに加えて、「上手 く」終わらせることも求められることがあるのです。

教訓がすぐに適用できそうな例としては契約書のサインがあります。気をつけて さえいれば向こうから「上手い終わらせ方」の答えがやってくるいい例です。契 約解除の方法がはっきり飲み込めないうちはその契約にはサインしないことです。 契約書の場合はきちんと解除方法が書いてある場合がほとんどですが、消費者を 引き付けるために書かれた広告やパンフレットの類いには全く書かれていないか、 書かれていてもごくごく小さい字で片隅に書かれていることも少なくありません。 逆に言えば、解除方法をパンフレットにも明示する会社の商品は(少なくともこ の文章の視点から言えば)信用に値すると言ってもいいでしょう(注1 )。

「終わらせる」という概念を拡張してみるのも有益です。使い慣れたコンピュー タシステムに変更を加えるのは、たとえそれが推奨されたバージョンアップだっ たとしても、やはり相応の慎重さを払うべきです。ここで私が言っているのは 「変更の終了」、つまり変更を元に戻す方法を可能な限り確保しておくべきだと いうことです。優れたシステム管理者は設定に手を加える際には必ず元の設定の バックアップをとるものです。

しかしながら、実生活では必ずしも終末の局面を思い描いてばかりいられない場 合が多々あるのもまた事実です。その最たるものは人間関係です。友人の顔を見 るたびに、「この男との友情の終わりはいったいいつ、どのようにやってくるの だろう、そしてそのときおれはどんな態度を決め込めばいいのだろう」などと考 えていては、いったいどうやって彼との間に信頼を築いていけるというのでしょ う。大抵の恋には悲しい結末が用意されているものですが、だからといって人を 恋することの素晴らしさが少しも減ぜられることはありません。真剣に「生き、 愛し、悩んで」(注2)いる人間に向かって、「どうせ悲 しい結末が待っているのだから」などと言葉をかけるのは、少なくとも人並みの 情熱を持った人間ならばためらって当然のことです。

このような現実を考えると、ライターの火の教訓も実際にはさして役に立たない ように思えてきます。とはいえ、教訓を生かすのは教訓を見つけることよりはる かに難しいということは、我々の誰もが初めから分かりすぎるほど分かっている ことです。すぐに役に立とうと立つまいと、物事の終末のことを少し頭に置いて おくことは価値あることです。必ずしも「上手い終わらせ方」をあらかじめ思い つく必要はありません。火の消し方を聞く前に火をつけてしまった場合でさえ、 持ち主に火の消し方を聞くことで無事解決したではありませんか。ちょっと慌て はしましたが。大切なのは答えではありません。終末のことを頭に置いておくこ とによって、いざというときに慌てずに済みます。慌てさえしなければ、冷静な 判断によってその場でいい答えを引き出すこともできるというものです。

初めから終わりのことばかり考えているのは全く愚かしいことですが、人間関係 の場合でも終末の日が来るかも知れないということだけは、頭にいれておいても 損はありません。どんなに澄んで煌めく友情の火も、どんなに激しく燃える愛情 の炎も、やがては消える時が来るかも知れないのですから。

(注1): 最近私は実際にあるサービスを受けようとして、2つの同種のサービス をウェブ上で検討したことがありました。最初に見つけた方は月々7.5ドルで、 後の方は月々25ドルでした。ウェブページのどこを探しても契約の終了方法が書 いていないという理由で、私が前者を蹴って後者を選択したことは言うまでもあ りません。ただしこのように上手く決断できる例はむしろ稀です。終わりのこと など考えず闇雲に突っ走ってしまうことがしばしばあることを私は白状しなけれ ばなりません。(戻る
(注2): もちろんゲーテが小説の巻頭で自分の人生を振り返って述べた言葉で す。私のもっとも気に入っている言葉のひとつです。(戻る
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Last modified: Fri Jul 28 01:11:24 JST 2000