今回は実際にメールの中身を書く、という行為について考察してみようと思いま す。言うまでもなく、メールを書くことの目的は何かを相手に伝えることにある のですから、常に注意を払わなければならないのは、その「何か」を上手く伝え るためにはどうするべきか、ということです。そしてその際にはやはり、エクリ チュールを用いて伝えようとしている、ということをしっかり認識しておくこと が必要です。
パロールとエクリチュールの関係については、古くから議論されてきた問題でし た。昔の人たちは圧倒的にパロールを支持していたようです。エクリチュールは 「父の元を離れた息子」に喩えられました。書かれた言葉は本人の手を永久に放 れ、もはや本人の(今現在の)意思とは無関係に他の人々に向かって語り始める。 本人の意思が変わったり、深化したりしても、一度書かれた言葉は本人の意思を 写して変わるようなことはありません。エクリチュールが「父の元を離れた息子」、 つまり、由来は「父」である自分自身に違いないが、まったく自分とは独立した 存在になってしまっており、直接いかなる手出しも出来ない存在・・・として喩 えられたのはこのためです。また、書かれた言葉は自らが他人に誤解されるよう なことがあっても、自分で自分自身を弁護することが出来ません。「父」のため に、という点では、彼はまったく頼りにならない息子です。それどころか、書か れた言葉が誤解されることにより、生みの親である「父」が不利な立場に立たさ れるようなことがあっても、彼は決して動いてはくれません。「父」のために、 どころか「父」にとって害になる、別の言葉で言えば「父に牙をむく」ことにな りうるのですから、彼はまったく信頼の置けない息子と呼ぶべきでしょう。しか も一回限りの「生きた言葉」であるパロールとは違い、エクリチュールはずいぶ ん長生きです。「父」が死ぬ瞬間まで、「息子」は父を害する存在であり続ける かも知れません。
デリダはこのような既成のパロールとエクリチュールの価値付けを批判しました が(注1)、メールを書くときの我々は嫌でも昔の人々の 考え方の方を尊重する必要がありそうです。我々が書いたメールは、「我々が書 いた」には違いないのですが、「送信」ボタンを押した瞬間そのメールは「父の 元を離れ」「いかなる手出しも出来ない」「自分とは独立した存在」になるので す。そしていったん相手が受信したら、下手をすれば未来永劫保存されることに なるかもしれません。
筆者の目的は何気なくメールを書き送ろうとしている読者を捕まえてメールに対 するおびえを抱かせ、送信を思いとどまらせることではないので、脅かすのはこ れくらいにしておきましょう。筆者は注意を促したいだけであって、我々はとも に「このやっかいな代物」を使いこなす方法を考えようとしていたのでした。自 分の息子を責めてばかりいても仕方がありません。まずは彼の「頼りなさ」を我々 が補ってあげることを考えてみましょうか。
ここまで考えてきた我々にとってはもはや明らかなことですが、彼は父の言葉を 伝えはするが、読み手に自ら語りかけるようなことは出来ません。ですから彼が 我々の意思をきちんと伝えるのに必要な準備は、全て我々自身の手で整えてやる ことが必要です。頼りないとはいっても、彼自身が我々の言葉を書き換えてしま うことは決してなく、いつも一言一句間違えなく相手の元に届けてくれるのです から、たいしたものではありませんか。準備さえきちんと整えてやれば、おそら くは我々の思い通りに働いてくれるでしょう。
準備を整える、というのは具体的には単に必要な注意を払う、ということです。 まず、これから言葉を書き送ろうとする相手がどんな相手なのかを考えに入れて おくことが大切です。それによって話のテーマはもちろん、使う言葉、話の運び を変えます。相手によって態度を変えるようで気分が悪いかも知れませんが、面 と向かって話をするときは間違いなく相手によって言葉遣い(あなたが日本人な ら主語も!)を変えているのですから、気にすることはありません。むしろ払っ て当然の注意を払っているに過ぎないのです。筆者は冒頭で読み手のみなさんに 対して感謝を捧げましたが、メールの場合も相手が「文章の読解」に巧みな人だ と心強いものです。多少言葉が足らなくても十分にこちらの意図を察してくれる のですから。逆の場合はこちらも十分な心構えと細心の注意が必要です。とはい え、もともと相手の真意を読みとるのが下手くそな人間はこちらが払った注意の 大きさなどには一向に気が付いてもくれませんが。時には注意を払った量に反比 例するがごとく、芸術的な読み違いを披露してこちらをがっかりさせてくれたり もします。こちらはこの上なく好意的な申し出をしたのだから、返事のメールに はてっきり感謝の言葉が並べられているだろう、と思って期待していると、まる でそれが当然とでも言うような素っ気ない返事が返ってくる。こちらがこれだけ 思い悩んでいることを伝えたのだから少しは反省して、次の便りではきっと一言 くらいは謝ってくれるだろうとひとまず胸をなで下ろしていると、逆に烈火のご とき怒りに満ちた返事が送られてくる。こういう場合はさすがに泣きたくなりま す。しかしあきらめてはいけません。書き言葉で大切なことを伝えるのなら、相 当注意を払う必要があることを我々は既に知っているのですから。相手が理解し てくれようがしてくれまいが、最善と思える行動をとるのが「ものを良く知って いる」人間のつとめです。
次に、相手によらず書き手が常に払うべき注意は、いつも忘れないようにしましょ う。私は他人の個々の文章力をとやかく言える自信はありませんが、これだけは 言えます。どんなにちょっとした用件でも、メールを書き上げたら一度や二度は 読み返すべきです。これだけで書き上げたばかりのメールの文章はかなり「まし」 なものになります。少なくとも一度読み返せば、打ち間違いや誤変換くらいは見 つけることが出来ます。最近では意味が取れなくなるような誤変換をするIMEは 少なくなりましたが、それでも上手く「はまって」しまったような場合、読解に 苦労することはありえます。タイポ(キーの打ち間違えのことです。「typoと typeミスする」ことからきているのでしょうか)を口うるさく非難しない、とい う読み手に科せられるルールを持ち出してチェックを怠るのは論外です。書き手 は読み手が払う注意が少なくなるよう出来る努力は極力するべきです。
ある程度長い文章になった場合はもう少し念を入れて読み直します。論理構造が 云々とまではいかないまでも、話の筋が見えにくくなっているところはないでしょ うか。大方の予想に反して、「話の筋がつながっているかどうか」は話題がくだ けたものの場合、余計に注意しなければならないようです。そしてメールの主な 使われ方から言えば、「身のある議論」をするというよりも、日常の些細な事柄 が話題の中心に上る場合の方が多いのですから、この点に注意を払わなければな らない場面は意外と少なくありません。受け取る側になってみれば、話題がくだ らないもので、その上話の流れが読めないような文章は最悪です。ある程度中身 のある文章であれば、読み手のがんばり次第で内容を繋ぎ繋ぎ読み進めることが 出来ますが、くだらない話題の単なる寄せ集めではそうもいきません。話題がく だらないのと、文章がくだらないのとはまったく別です。日々の生活の中の小さ な事柄を話題に取り上げつつも、読んでくれる相手が流れをつかみながら読み進 められるような文章を書き上げようではありませんか。こういったら少し大げさ でしょうか。しかし、そうすることで我々が感じた喜びや悲しみをまざまざと感 じ取ってもらえるなら、きっとどんな努力も払うに値すると思えることでしょう。
これくらい注意してやれば、我々は「息子にしてやれることは大方してやった」 と言っても許されるのではないでしょうか。後は読み手も相応の注意を払って読 んでくれることを祈るばかりです。こればかりはどうしようもありません。とは いえ、せっかくこの文章を読んでくださった方は、どうか読み手の立場に立った ときも優秀な読み手たるようにいつも心がけていただきたい。一度書き手の苦労 について考察したことのある人なら、自分が読み手になったときも相手の苦労を 慮って上手に意図をくみ取ることが出来るでしょう。「深い意図」はともかく、 意図が文面に明確に現れているような(いわゆる)「要件」は少なくとも全部読 み取って、返事の中ではなるべくそれに応えるようにしたいものです。
どうかエクリチュールが無力な存在であることを忘れないであげてください。パ ロールならば声の調子で十分に相手の注意を引き付けることも出来るでしょうが、 エクリチュールは自ら注意を引き付けようとすることはできないのです。読み手 が読み返す気にならなければ、繰り返し主張することも不可能です。さっと読ん で相手の要件をそのまま読み流してしまったり、読んだはずの要件を忘れてしまっ たりというようなことでは「父の使い」でやってきた彼が可愛そうです。「父」 たる書き手も可愛そうです。それを無くすには読み手が意識する他はありません。 メールもコミュニケーションである以上、二人以上の人間の共同作業なのであっ て、書き手一人がどんなに頑張ってもそれだけで十分なコミュニケーションがで きる訳ではありません。我々がこれからメールを書き送ろうとしている相手が、 十分な注意の上に我々の真意をくみ取ってくれるような人であるといいですね。
エクリチュールの頼りなさの点からの考察はこれでひとまず終えることにして、 次は「エクリチュールは長生き」という点から考察してみたいと思います。今回 もだいぶ長くなったのでこれは次回に譲ることにして、そろそろ終わりにするこ とにしましょう。「この文章」を読みとってくださる読み手のみなさんへの感謝 を込めて(注2)。
(注1): もちろん彼の哲学においてはこのパロールとエクリチュールの対立が 特段に重要というわけではありません。彼は「二つの価値の対立で物事を見て、 そのどちらか一方にプラスの概念を付加する思考」自体を批判しました。パロー ルとエクリチュールの対立はこの中の一つに過ぎません。「父と息子」という二 項対立的な捉え方も当然批判の対象でした。そもそもなぜ「母と娘」ではなく 「父と息子」と喩えられたのでしょうか。批判しうる点はここにも見いだすこと が出来ますね。(戻る)
(注2): 余談ですが、このコーナーに上げる文章にはどれも3〜8時間をかけて、 いつも気の済むまで読み返すようにしています。「8時間かけた」というのは実 はメールについてのエッセーの最初のものでした。ですから冒頭に書いたように、 その文章が好評をいただけたことは望外の喜びですし、筆者としてはやはり感謝 せずにはいられません。(戻る)